ピアニストとして、今、私のいる場所

アーティストインタビュー
高木里代子さん(ジャズピアニスト)

ヤマハ音楽教室 “J専”が私の原点

── 高木さんにとって音楽との出会い、ピアノを始めたきっかけはどういうものだったんでしょうか。

母がピアノをやっていて、クラシックピアニストになりたかった人で、娘に夢を託したということではないんですが、4歳くらいから近所のピアノ教室に通わされてました。もの心つく前から常に母のピアノを聴いて育ったこともあったのか、音に関する感覚が自然と鍛えられていて、耳から入ってきた音をすぐにピアノで弾けちゃう子だったんですね。たとえばドラクエのテーマとかを聴くと、すぐに自分で再現しちゃうって感じで。それを見たピアノの先生が「この子は私の所にいるよりも、もっと専門のレッスンを受けさせたほうが良い」って母に進言して、ヤマハ音楽教室のジュニア専門コースに通うことになったんです。

 

── ヤマハ音楽教室のジュニア専門コースといえば、通称“J専“とも呼ばれ、数多くの音楽家(ピアニスト、作曲家、編曲家)を輩出してきた特別なコースですね。

入学にあたってはオーディションがあって、鍵盤を見ないで鳴らされた和音やメロディを瞬時に理解できるかをテストする聴音などがあリました。今思うとかなり難しい選抜試験だったのかもしれませんが、幼い子供からするとクイズを解くような楽しさがあって、緊張することなくサラッとできて、無事入学できました。 そしてその後、J専の中からさらに選抜されオーディションに受かると入ることのできる、音楽院というシステムがあり、私は中学の頃に入ったのですが、ここは本格的なクラシックピアニストの卵ともいうべき錚々たる人たちが通っているような凄いコースでした。先輩には日本人で初めてチャイコフスキーコンクールで優勝した上原彩子さん、ジャズピアニストの上原ひろみさんもいらっしゃいました。

楽譜を弾くお姉さん(左)の演奏を耳コピする5歳頃の高木さん(右)

 

発表会でのソロピアノの様子 7歳頃

── J専ではピアノレッスンはもちろん、たとえば指揮法や身体表現など、音楽表現に関わるさまざまなことを学んだかと思うのですが。

特に創作に関わる部分。理論だけでなく自分の中から何かを生み出す喜びを知ったことが、自分にとって大きかったですね。カリキュラムにはオリジナル曲を作曲するというものがあって、最初は本当に簡単なものしかできないんですけれど、だんだんと自分なりのさまざまなアプローチをできるようになっていく。しかもヤマハ音楽教室にはジュニア・オリジナル・コンサートっていう15歳以下の子どもたちがつくった曲を発表するテレビ番組があって、セレクションを勝ち抜いていくとそこに出演できるんです。私は小6の頃にそこに出演することができました。

 

そうやって結果が出てくるようになってくると、作品をつくって人に評価され、認められることが自信になってくる。その後、地区大会に毎年のように選ばれるようになってくると、演奏を披露することはもちろん、作品づくりが楽しくなっていって、「あ〜、もしかしたら自分はこういうことが好きなのかな」って子どもながらに思ったのは覚えていますね。

初のテレビ出演となったジュニア・オリジナル・コンサート放映の様子

── そのまま行くとクラシックの道を歩む気がするんですが?

中学校に上がるくらいからかな、周りにはすごい人たちがたくさんいて、「クラシックの演奏者という面で、自分は通用するのかな、この人たちと闘って自分は世界に出ていけるのかな」ってことを考えるようになってきたんですね。クラシックの演奏者というと、譜面を忠実に弾くっていうイメージがあるじゃないですか、それが自分に合っているのかな、と疑問も持ち始めて‥‥‥。

 

── どちらかというと自由な創作の方に喜びを感じてたわけですものね。

ええ、それもあってある時、クラシックの偉い先生を紹介してもらえる機会が訪れたのですが、本気でその道に進むかどうか?の究極の選択を迫られた時、初めて「私はその道じゃない」と自ら母に伝えたんです。それが人生で初めての大きな決断でした。

 

── そこでクラシックのレールから離れた高木さんは、どこでジャズと出会うんでしょうか。

家にはクラシックの他にジャズのCDもいっぱいあって、いわゆるクラシックの演奏家が惚れ込むジャズピアニスト、例えばビルエバンスやキースジャレットとか、そういう人の音楽が流れていたので馴染みはあったんです。ジャズの即興演奏って、いわば作曲じゃないですか。他の演奏者の音に反応して、自分の感性の赴くままに曲を創っていくという意味で。ぼんやりとだけど、「これってすごいな、楽しそうだなって、自分に合っているかもな」って思ってはいました。ただ実際に自らジャズに触れ始めたのは高校2年生の秋からです。実はこの頃、私は学校に通わない、いわゆる不登校になったんです。

ジュニア・オリジナル・コンサートの地区大会で

── それは何か原因があって?

9.11(アメリカ同時多発テロ事件=2001年)です。夜ぼんやりとテレビを見ていて、ニューヨークの高層ビルに飛行機が突っ込んでいく映像を観て、全身のアトピーが酷くなり、同時に、「あぁ、世界はもう終わるんだ。もう学校なんか行く意味ないじゃないか」と急に思い、翌日から学校に行かなくなりました。

 

── 社会の仕組み、枠組み。当たり前のように思っていた価値観があの衝撃によって崩れた、突然いろんなことが無意味に思えたってことなんですかね?

どうなんでしょうね。ただ不登校とはいえ、部屋に引きこもって出てこないとか、親に反抗するとか、という感じではなかったんです。ただ学校に行く意味が見出せなくなったというか。

 

── とはいえご家族は心配されますよね。

そんな風にブラブラしてる時に、母から「何でもいいから何かやりなさい」って言われ、紹介されたのがヤマハ音楽教室でのジャズのレッスンなんです。母としては娘を再生させなくちゃ、って心配したんでしょうね。で、この子はピアノ、しかもアドリブとか自由な感性が重視されるジャズならきっと夢中になる、って考えたんじゃないかと。さすが親、娘の特徴はよくわかってましたね(笑)。

 

── そこでいわばジャズの基礎を学んだ?

通った教室では理論を学ぶというより実践重視でした。8小節くらいのスタンダード曲の譜面が用意され、先生がエレクトーンなどでバッキングするのに合わせて即興でアドリブ演奏していくという感じで。もちろん最初は何にも弾けないんですけれど、やっていくうちに、幼い頃からヤマハで学んだ演奏、作曲なんかの下地があるじゃないですか。まさにそのベーシックな部分が反応してくれるんですよ、課題に対して。その意味ではヤマハの音楽教育メソッドってすごいなって思って。J専ではクラシックっていう特定の領域じゃなくて、まさに“音楽”ってものを学んだんですね。だからよく「ジャズはいつから始めたんですか?」って聞かれた時、答えに困っちゃうんですよ。レッスンを始めたのは確かにこの時からなんだけど、多分私の創るジャズの大元はもっと前、その土台はヤマハで培われたんじゃないか、あの頃から始まってたんじゃないかって思うので。

*オリジナルコンサート~私たちの創った音楽
1987年から1998年までテレビ朝日系列局で放送された音楽番組。主にヤマハ音楽教室の教育システムの一つだったジュニア・オリジナル・コンサートの模様が放送された。

 
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