いつだって私のそばにはピアノが

アーティストインタビュー
宇徳敬子さん(シンガーソングライター)

4歳の頃には「私は歌手になる」って思い込んでいた(笑)

幼少期のピアノ発表会での一コマ

── その経験は宇徳さんにとって大きな財産なんですね。

はい。当時はピアノやオルガンに触って音を奏でる楽しさが先にあって、練習曲は暗譜して弾いていました。ただ譜面どおりにきちんと弾くことにも途中から飽きてしまって、耳から入ってきた曲を鍵盤で弾く、再現する。そして弾いているうちに自分でアレンジしていくことがすごく楽しくて。母からは「ちゃんと譜面見て(課題曲の練習の時)弾きなさい」ってよく言われました(笑)。
 

── それ以降、宇徳さんの生活には常にピアノがある感じでしょうか。

学校の音楽室にはピアノやオルガンがあり、休み時間になると、時々集まってちょっとした替え歌をつくったり。同級生から「〇〇弾いて」ってリクエストを受けると、譜面なんてないから耳の記憶を頼りに弾いたりしてみんなが喜んでくれるのが嬉しかったし、楽しかったです。
 

── ご自宅では?

実家の私の部屋にはピアノがあって、特に中学・高校生の頃はピアノが感情のはけ口のように、何か嫌なことがあったり、嬉しい事があると何時間もピアノに向かっていました。

── そんな宇徳さんが歌い手を意識し始めたのはいつ頃なんでしょう。

多分、4歳くらいには「私は歌手になる」って決めていた。というより「なるんだ」って夢いっぱいな夢みる夢子でした(笑)。
 
実は私、5歳か6歳の頃、突然声質が変わってしまって、それまでハイトーンボイスで歌っていたのに、少ししゃがれたハスキーな感じになってしまったんです。今でもその時のことを覚えていて、通学路の途中に病院があったのですが、病院の売店のおばちゃんに「私、もうキレイな声でなくなっちゃったから歌手になれないの」って(笑)。
すると、売店のおばちゃんが「八代亜紀さんを見てみなさい、ハスキーな声でも立派な歌手になっているでしょう。だからあなたも大丈夫だよ」って、慰めてもらえて嬉しかったです。
この一言が、私の人生を大きく変えたと言っても過言ではないでしょう(笑)。
 

── ちょっとした声の変化にも傷つくくらい「歌手になりたい」という思いは本気だったわけですね。とはいえ「なりたい」と思うだけで「なれる」世界でもないですよね。

「歌手になる」という思いはずっとあって、一方で幼児教育、特にピアノや音楽を中心にした教育にも興味を持っていたので、高校は保育科で学び、短大では幼稚園教諭の資格を取得したので、当然、両親は短大を卒業して実家で未来の子供達にピアノを教えるという・・「なんて親孝行な娘なんでしょう」と思って夢を描いていたようなんです。
ただ。。。。。
 

── ただ?

短大の夏休みに初めて東京へ行ったことで人生の転機が訪れました。

 
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