このピアノには“再生”という言葉がふさわしい

アーティストインタビュー
安部 潤さん(音楽プロデューサー、アレンジャー、ピアニスト、キーボードプレイヤー)

大学時代にプロの道へ

── 先ほどドラムソロなどを自分で編集していた、というお話でしたが。安部さんの以前のインタビューで、早い段階で興味の対象が演奏だけでなく、音のアンサンブル、編曲の方へ向かっていたという記事を読んだんですが。

そうなんです。鍵盤奏者としてはジョー・サンプルが好きで、聴き込んだし、影響もされたと思うんですが、ピアノ演奏にのめり込むだけではなく、何より一番興味を覚えたのが、みんなで音を出した時の演奏と演奏の組み合わせによって醸し出される世界観でした。当時、父がヤマハのRXシリーズというPCM音源*を使ったリズムマシンを持っていて、それを借りてスティーブ・ガットなどの有名ドラマーの演奏をプログラムしたりして、自分なりのフレーズを作ってよく遊んでいましたね。
 

── その後のMIDI**の普及に象徴されますが、まさにデジタル技術の進化によって、ミュージシャンを揃えてレコーディングするといった、物理的な制約なしに音楽制作ができる。音楽をめぐる環境変化とリンクする時代でもありますね。

ええ、そうした環境変化も僕がアレンジにのめり込んでいくきっかけになりました。シンセサイザーに代表されるデジタル技術の進化によって、たった一人で楽曲の世界観を構築でき、それを実際に再現できるようになっていった。中学・高校時代の僕は、バンドを組む仲間もいなかったので、ひたすら自分の好きな音楽世界を、当時の自分に限られた機材環境でつくっては楽しんでいる少年でした。

── まさにアレンジャーとしての原点がそこにあるのかもしれませんね。で、そんな安部少年が音楽を職業とするまでにどのようなステップがあったんでしょうか。

お話したように中高まではバンド活動などもしていなかったわけですが、大学に入ってから音楽仲間もできて、演奏や自分自身の作品制作なども行うようになってきました。大学の先輩にものすごい能力のある人たちがいて、刺激を受けたし、引っ張っていってもらったって感じです。
 
福岡っていう場所の特徴もあると思うんですが、地方都市ではあるけれど、一定の大きな経済圏をつくっている。一方で東京のように、ものすごく競争が激しいかというとそうではない。音楽関係のビジネスでいえば、イベントでの演奏、CM制作などが地方とはいえ一定のボリュームであって、学生バンド、学生ミュージシャンにも仕事があったんですよ。ちょうどその頃がバブル期だったというのも色濃く影響しているんでしょうが、20歳くらいの時には人前で演奏してギャラをもらうという活動をスタートしました。そんな活動を続けていくと福岡の音楽業界でネットワークもできて、次第にCM曲の制作、アレンジといった仕事を依頼されるようになって、自然に音楽業界に足を踏み入れていました。

大学時代のライブ。学生時代にすでにプロとしての活動をスタート

── 大学卒業を控えて、特に就職活動を考えたりすることもなかった?

ええ、学生時代から仕事をさせていただいて、そのまま音楽活動を続けていった。流れのまま音楽業界に入っていったという形です。
 

── あまりにさらっと話されますけれど、当然、そこはスキルというか実力を認められてということなんでしょうね。

どうなんでしょう。一番の要因は当時の時代背景と福岡っていう場所じゃないかな。東京にいて同じようなことができたかというと、おそらく違う。ラッキーだったと思います。

*PCM音源
CDなどで使われるパルス符号変調技術を使用したデジタルシンセサイザーの音源方式のひとつ。

**MIDI
電子楽器の演奏データを異なる機器間で転送・共有するための共通規格。MMA(MIDI Manufactures Associationn)によって1981年に策定された。

 
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