地球にはピアノがあるじゃないか!

アーティストインタビュー
ダンス☆マン(シンガー、ベーシスト、作詞・作曲・編曲家)

日本のファンクミュージックの夜明け

── ようやく自分のやりたい音楽でプロとして一歩踏み出すわけですね。

バンドデビューに関しては一つ裏話がありまして、実は当初の予定では女の子がセンターで歌うはずだったんです。ところがその子がFallin Loveからの逃避行。地球的な言い方すると駆け落ちしてしまいまして、で、「誰が歌うんだ」ってバンド間で話し合いというか、ほぼジャンケンみたいな形で(笑)、私がセンターで歌うことになったんです。
 

── そんな不測の事態からシンガーとしてのダンス☆マンが生まれた。いや、まだこの時は地球人の姿でしたね。

そうです。当時は「髪型なんとかしろ」「服装もうちょっと考えろ」って周りからよく注意されました。自分はサウンドの人。音づくりやベースを弾いているのが楽しい人で、センター張っているボーカリストっていう自覚は低かったんです。ライブの時、今ではイン・イヤー・モニターが主流ですけど、昔はPAエンジニアさんがステージ前のモニタースピーカーのバランスを調整してくれるわけですが、そんな時も「もっとギターの音出してください」などと注文してびっくりされました。普通ボーカリストは歌いやすいバランスを選ぶのに、私は全体のサウンドを聴きたがるからです。私にとって、歌いやすいなんてのは二の次だったんですね。

 

── ということはダンス☆マンにとっては、このバンドデビュー当時は、まだまだいろんなことにもがいていた時代になるんですかね。

角松さんのプロデュースでデビューなんて、それはそれはラッキーなことなわけですが、そのバンドは熱いファンに支えられながらも、チャートを賑わすこともなく商業的には低迷を続けるわけです。もちろんコアなファンはいたし、テレビのレギュラー番組があったり、エンタメ、音楽業界では評価してくれる人もいましたけれど。私自身はさっき言ったように、周りからのプレッシャーもあって、その頃は悩んだし、苦しみましたね。どうやればいいのかっていうことで。ただ角松さんはじめ、多くの方とやった経験が血となり肉になったっていうのは確かで、ビジネスとしては成功と言い難いかもしれないけれど、ダンス☆マンが生まれるにはあの時期が必要だったんだなって思いますね。

 

── 実際、角松さんが象徴的な存在ですけれど、この頃からJ-POPにソウル、ブラックミュージックのエッセンスがふんだんに入ってくる。ダンス☆マンにとっては徐々に機が熟すという感じでしょうか。

角松さんはよく「自分は70年代の音楽を守る砦」なんて言ってますけれど、私から見たら、ロック中心だったミュージックシーンに、ソウル、ファンクがメインストリームに出てくる、その黎明期を象徴する人。久保田利伸さんの登場もこの頃で、まさにこの方々は「日本のファンクミュージックの夜明け」ですね。

 
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