地球にはピアノがあるじゃないか!

アーティストインタビュー
ダンス☆マン(シンガー、ベーシスト、作詞・作曲・編曲家)

ロックからフュージョンの時代へ

── そんなクラシックピアノをやっていたダンス☆マンが、どうしてファンク、ソウルといったブラックミュージックに傾倒していくんですか?

次元が複雑になるんでついてきてくださいね。まずミラーボール星にはファンクに似た非常にかっこいい音楽があるんです。元々それにハマっていた。で、地球に来てファンク、ソウルミュージックに触れて「なんだこのリズムは!」って衝撃を受けて、どんどんそこにのめり込んでいったんです。

 

── それは地球の時間軸で、いくつくらいの頃ですか?

中学生の頃ですね。

 

── 随分と早熟な感じですね。中学生でファンクとかソウルって。

周りはもっぱらロックでしたね。KISSのコピーやったり。当時、友達と一緒にやっていたハードロックバンドではドラムやってたんです。もちろんKISSとかかっこいいんですよ、でも自分の身体の中から出てくるリズムは違う。もっとグルーヴ感のあるサウンド、16分音符のポリリズムに身を委ねたいって思ってました。ただ、その後、フュージョンブームが来て16分音符を叩かなくちゃいけなくなったら、できないんでドラムは辞めちゃったんですけどね(笑)。

── つまりダンス☆マンは自分の本当の姿を隠しながら、同時に音楽の趣向についても周りに共感してくれる人がいない。ある意味孤高な存在であったと?

当時の若い世代のバンド文化にはファンクってのはなかった。後にブラザー・コーンさんなんかと話すと、クラブ、ディスコカルチャーではファッションやダンスなどを通じてファンク、ソウルミュージックに触れられたって言うんですけど、少なくとも僕の周りのバンド仲間にはほぼなかったです。
 
ファンクって一見シンプルなんですけれど、うねるようなグルーヴを出していくっていうことがテクニック的にも難しいんです、中高生のロックバンドなんかだと。で、しばらくするとフュージョンブームが来て、アマチュアでもフュージョン系のバンドが出てきます。フュージョンにはファンク的要素もすごく多くて、独特のグルーヴなんかを出せるスキルもフュージョン系のバンドにはあった。なので私はそこでドラムからベースに転向して、ラリー・グラハム、ルイス・ジョンソン、マーカス・ミラーなんていう大御所をコピーしまくりました。

 

── アメリカではリー・リトナー、ラリー・カールトンなど、日本でも高中(正義)さん、ナベサダ(渡辺貞夫)さん、グループではプリズム、カシオペアなどが出てきた頃ですね。

ええ、その頃なんと私が加入していたフュージョンバンドのメンバーの一人がカシオペアのローディーをやることになったんです。で、「それは聞き捨てならない」(笑)ということで、私もついていってローディーをやりながら、間近で演奏を見聴きしました。
 
そういえばカシオペアはヤマハ主催のバンドコンテストEastWestで見出されたんですよね。キーボードの向谷(実)さんは合歓音楽院(現在のヤマハ音楽院)出身。野呂(一生)さんのギター、櫻井(哲夫)さんのベースもヤマハ。向谷さんはたしか今や伝説とも言えるGS1(FM音源搭載のデジタルキーボード)を使ってたんじゃないかな。
 
カシオペアを初めて生で観たのがドラムが神保(彰)さんに変わった頃、どこかの市民会館でした。ファンキーな要素がサウンドに含まれていて、ものすごい衝撃を受けたのを覚えています。その後に<THUNDER LIVE>っていうアルバムが出ましたけど、これも名盤ですね。とにかく聴きまくりました。あと余談ですけど、カシオペアとミラーボール星は宇宙繋がりでとても親和性があるんです(笑)。

 

── ダンス☆マン的には自分のやりたい音楽に時代が追いついてきた、って感じでしょうか?

まずはフュージョンの世界でそういうファンク的なサウンドができるようになってきた。そして歌謡曲がJ-POPと呼ばれるようになった頃、颯爽と登場したのが角松敏生さんです。
 
車を運転していてFMから流れてきた角松さんの曲を聴いた時、「なんだこれ!すげーカッコいい!」ってしびれましたね。ニューヨークの洗練されたファンクミュージックを日本語に乗せる。今では当たり前かもしれないけれど、当時はものすごく新しくて、おしゃれで、本当にカッコよかった。で、何を思ったか私は「角松さんなら俺の音楽を分かってくれる」という思い込みだけで、デモテープを角松さん家のポストに「どうぞお聴きください」って投函するという、今思えばなかなかに大胆な行動に出たんです。

 

── 直接、家にですか?

バンドメンバーのバイト先の喫茶店のマスターが「角松くんって昔、ここでバイトしてたんだよ、家も知ってるよ」って言うもので。今では、そんな簡単に個人情報漏らしちゃいけないわけですが、当時はまだいろいろと緩かった時代なので。もちろん投函するには勇気振り絞りましたよ。寅さんが帰ってきて家の前を行ったり来たりするみたいに何度も往復して、最後は「えいやっ!」で入れてきました。

 

── で、それに対する反応はあったんですか?

トップ・オブ・トップの人気アーティストが、そんなどこの誰かも分からないアマチュアバンドのデモテープに反応するわけなく、時間は流れていくんですが。その頃たまたまコント赤信号の渡辺(正行)さんが渋谷La mamaでやっていた新人コント大会に出ることがあったんです。「曲間のMCで披露してるモノマネ芸が面白い」って評価されて。

 

── ウッチャンナンチャン、爆笑問題をはじめ、多くの芸人さんを輩出してるお笑いライブですね。

ええ、音楽と関係ないお笑いをやってどうする、って思われるかもしれないんですが、なんとその場を渡辺さんと共に仕切ってた方が角松さんの知り合いで、それが縁で角松さんが私たちのバンドのライブを観にきてくれたんです。さらにそれがきっかけになって、角松さんプロデュースでメジャーデビューすることになるんですから、人生は分からないと言いますか。

 

── 角松さんは音楽性を理解してくれた、可能性を感じてくれたわけですね。

「なんだこのチューニングあってないバンドは」「こんなにチューニングがあってないバンドは最近ないぞ」(笑)って面白がってくれたみたいです。

 
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