私とピアノ

PART1

アメリカ南西部の砂漠で気づいた
自分の頭の中で鳴っている音

谷川公子(ピアニスト/作曲家/プロデューサー)

 

私とピアノ

PART1

アメリカ南西部の砂漠で気づいた
自分の頭の中で鳴っている音

谷川公子(ピアニスト/作曲家/プロデューサー)

はじめてのピアノ

── 谷川さんとピアノとの出会いはどんなものだったのでしょう。

はじめて人前でピアノを弾いたのは幼稚園の頃、父と散歩に出かけた途中に立ち寄った楽器店だったと思います。父はクラシックギター、ピアノ、アコーディオン、フルート、ピッコロ、などを独学で習得したものの、プロの道は諦めて就職し、会社のオーケーストラに所属するなど趣味的に音楽に親しんでいた人。そんな父がいろんな楽器を物色するうち展示してあったピアノをポロンと弾いた。で、それを見ていた私が「ワタシも弾けるよ」といって、家のオルゴールで耳に馴染んでいた<禁じられた遊び>を突然弾いちゃった! それまで、正式にピアノのレッスンは受けたことがなくて、家にもピアノはなかった。ただお友だちの家に遊びに行くとピアノの先生がいらしている時があって、その娘がレッスンを受ける様子を興味津々で見ていたので、いつのまにか《どう弾くのか》を覚えてしまったみたい。家には名曲オルゴールや父の好きなクラシックのレコードがいつも流れていたからメロディも自然に覚えていて、理屈ではなく、鍵盤をイメージとしてつかんでいたんでしょうね。その意味では《私》というより、子どもの感性・吸収力はすごい!ということですが、父にしてみれば「この娘は天才だ」と驚いたのでしょう。(笑)、ほどなくして我が家にピアノがやって来ました。サラリーマンの父にしたら決して安くは無い買い物だったはずですけど、すべては情操教育と娘の将来のため?!(笑)、当時のヤマハのアップライトピアノの中では一番大きいU1というモデルの、マホガニー調の木目がすごく綺麗なピアノを買ってくれました。

8才頃 自宅でピアノ練習中

 

── 初めて家にピアノがきた日のことを覚えています?

実はあまり覚えてなくて、、、でも、当時、社宅のアパートでしたけど、不思議とアップライトピアノを置くための板張りのスペースが居間の一角にあって、そこにピッタリ収まったという印象でした。なにはともあれ、このアップライトは私の最初のピアノであり、同時に音楽家の道を志していた時までずっとそばにいたピアノですから、ある意味、成長を見届けてくれた感慨深い一台であることは間違いないですね。
 

── ということは最初のピアノとは20年以上一緒にいた?

ある時期からは同じ調律師さんに見てもらって来ましたが、その方はいつも「良いピアノですね」っておっしゃってました。後にグランドピアノに 買い替えたのも、コンサートなど本番で弾くことになるピアノを想定するとタッチの感覚などの違いもあり「日頃からグランドピアノで練習した方が良い」とアドバイスされたからで、壊れたとか寿命などではありません。下取りではなく私のアップライトを熱烈に欲しいという知人にお譲りしましたがオーバーホールも必要なく、すぐに弾ける状態でした。最初に良いものを選んで、信頼できる調律師さんにメンテナンスをしてもらい、大切に弾き続けてあげれば、ピアノは20年どころか一生付き合っていけるものなんだと思います。
 

── このアップライトピアノはアーティスト谷川公子が生まれるまでを共に歩んだ一台になるわけですね。

少女時代はおてんばで、太陽の下で思いっきり遊びたいタイプでしたし、球技が大好きで、中高時代になるとバレーボール、バスケットボール、テニスなどの部活に打ち込んで試合に出ていましたから、正統なるピアノレッスンは一進一退でしたが、それでも自由気ままに弾くのは心底楽しくて、家に帰ると夢中でピアノに向かってました。短大を卒業して商社のOLになって、2年で退社して、自分探しに旅立って、アメリカに行って、帰って来て一人暮らしを始めた時にも、もちろん、このピアノと一緒に実家を出ることになりましたから、そう、共に歩んでます(笑)!

7才 はじめてのピアノ発表会にて

 

9才頃 明治神宮(弟の七五三で)

 

── え!? スポーツ、アメリカ? ピアノを習い始めてからピアニストへの道を歩んだわけではないのですか。

ピアノを買ってもらったので、当然の流れでクラシックピアノのお稽古に通うようになりましたがバイエルなどの練習曲を地道に学んで練習し、楽譜に忠実にカリキュラムをこなすということが苦手で、どちらかというと自分の好きな曲を自由に楽しく弾きたいタイプでした。 課題はほとんどおさらいもせず、楽譜はカバンに入れたまま。心を動かされる音楽を耳にすると、それを自分の感覚でコピーして弾いてみたり、大作曲家の歴史ある曲を自分の気にいるようにアレンジして、なんと先生のレッスンでも弾いてしまったり。父はピアノをやるからには、学業以外は集中して欲しいと願っていましたが、中学や高校ではスポーツに夢中。バスケットボール部に入ったと知った時も「指を怪我したらどうする」ってかなり本気で怒られたりしました。その時点ではピアノとどちらを取るかと言われれば部活を優先してしまっていました(苦笑)。
 

── プロのピアニストというのは、学生時代にはあまり意識していなかったのですか。

私はクラシックをやるなら例えば「ウラディミール・アシュケナージみたいに弾けなくちゃダメだ」、ジャズなら「オスカー・ピーターソンみたいじゃなくちゃ」という風に極端に考えてしまう癖があり、すると自分の現実にガーンというか「あそこに自分は行けないな」と思ってシュンとなっちゃうところがありました。だから音楽を諦めたというより、「目指す理想は遥かに遠し」と考えていたのかもしれません。もちろんずっとピアノはそばにありましたしレッスンにも通っていました。なにより弾くことは大好きでした。ただ自分の好きなものにしか興味がなくて、教育過程を経て音大へ進むにはそれなりの道があるとわかった時点で、わたしには到底無理だと。 型にはめられるのをきらって自由奔放なままでは将来が危ない?!と心配した昭和の親の理想に従わざるを得ない状況で、もやもやとしたまま音楽は趣味で一生続けましょう・・・となり、結局、短大から商社に就職し、数年勤めたら結婚して家庭に入る、という、昭和の親の青写真に一旦は足を踏み入れることになりました。

 
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